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◆◇ Diary ◇◆ 10月



ルール説明会
2004.10.30
 朝から冷たい雨…。
やだなーとか思いながら、カッパ着てチャリで学校へ向かう。
地元の体育振興会の方が結構時間をかけてルールを説明してくださった。
私が地区役員としてルール説明会に出たのは2年前。際どい判定の仕方などは すでに忘れ去っていたので出席してよかった。このルール説明を実際に見ないで説明文章のルールだけを読んだ人は、よくわからないに違いない。
ルール説明が終わってすぐに帰れると思っていたのだが、その後同じチーム同士集まって連絡網の順番やら携帯電話・メルアドの交換やら…と続き、終了したのは12時を回ってからであった。
2時間半近く冷たい床に体育座りしていたので 腰が変…。咳・痰も治まっていないのに腰痛になってしまったら…。。。
どうなる、明後日の練習初日…。コーチなのにィ…(泣)


風邪で見舞いに行けない日々
2004.10.28
 上の子は私から風邪が移ったものだと思い込んでいたが、風邪の種類が違ったらしい…。 ご丁寧に私は子どもの風邪をもらってしまって咳喉地獄である。こんなでは老人の元には行けない…。
仕方ないので母にも父にも悪いが家でじっとしていることにした。あーあ…。。。



ドッジボール初顔合わせ〜役員決め
2004.10.27
 地区こども会から「コーチ」か「監督」をお願いしたいとの話は先日不可能かもしれないと説明した。しかし、他の親御さんの事情もあるだろうから、皆の話を聞いて私より大変な人ばかりだったら…仕方ない…受けることになるかもしれない…そういう覚悟はあった。指定の時間に行くと子供はほとんど全員居るのに…親が少ないっ!やられたっ★役員イヤだから最初から来ないようだ…。で、今回は監督もコーチも二本立てでも良いというし、もう一人のコーチは下の子が幼稚園児。それにお子さんは5.6年のチームに上がってしまったのに 昨年3.4年のチームのコーチを受けていたから…ということで今回もコーチをお願いされているという…。そんな事情の方に押し付けてしまうのも なんとなく申し訳なくて…二人ならどうにか都合をつけることもできるだろう…と、OKしてしまった。
いつもながら…この手の立場に立たされると…こうなってしまうのだった…。はーっっっ…。。。


中越地震
2004.10.23
 新潟中越地方を震源とする地震が発生。関東地方も ゆっくりではあったがかなり横揺れがあった。
震源地周辺では かなりの被害になっているのかもしれない…。夜だから、上空からヘリで撮った画像をみてもわからない…。
皆が無事でありますように…。
我が家では下の子が この地震で酔ったようになり、風邪気味だったのも手伝って そのままリビングで寝てしまった。疲れが溜まっていたのだろうが、大丈夫だろうか…。。


風邪
2004.10.22
 無遅刻・無欠席・無早退の上の子が、初めて学校を休んだ。
大体金曜の夜くらいに具合が悪くなるので学校を休まずに今までやってこれたのだが、今回は かなり酷いようで自ら休むと意志表示。昼過ぎまで真っ赤な顔をして爆睡状態だった。
夕方掛かり付けの病院へ。春以来だったのだが、先生、子どもの成長ぶりに驚いていた。「おじさんっぽくなっちゃって」と私が言うと、病室は爆笑の渦と化した(^^;;)
だって口ひげまで生えてきて〜いかにもオッサンっぽかったからーつい★
本人も笑っていたわ。さすがに私に似て図太いわー☆
薬局で薬を待っている時オロナミンCなど飲んでるし…。なんだか笑える。。。
いっつも将棋道場でオジサンに混じって指しているから染まったか?
この夏くらいからか?風呂上りにトランクスとランニングとかでテレビ見ている後姿は すっかりオヤジ。4月は そんなふうには見えなかったのになぁ。。。
でも、中身は子ども。この絶妙なアンバランスさが笑いを誘うのよネェ☆ぷっ


学級懇談会
2004.10.21
 今回の学級懇談会の話題の中心は終始「緊急時の児童の安全な下校とは」だった。
これは前回の『インターネット殺人予告書き込み』の時に子供の安全を考え取った行動に かなりの反省点があったことを受けてのことだった。子供達が登校してからすぐ子供達を自習させ、職員会議が開かれたという。その後、子供達への説明、家庭への連絡、安全の確保の為の校舎見まわり…これらを限られた学校に居る大人達の人数でまかなうには無理があったとのこと。特に家庭への連絡は 緊急連絡網を使っても うまく回らず混乱が生じた。連絡網が回っていないうちに子供達の帰宅となってしまったので 遠出をしていた親は帰宅時間の3時になって、ようやく事の重大さに気づくことになった家もあったらしい。鍵を持っていなくて家に入れず近所の友達の家で母親の帰宅を待った子、鍵は持っていて家には入れたものの、自分一人でいることに耐えられずパニックになって母親の職場に泣きながら電話をかけてきた子も居たそうだ。
我が家は運良く私が家に居た為、連絡網も回すことができたし、子供の帰宅を迎えられた。その後も安全確保することもできた。子供は何の不安も無く落ち着いて殺人予告時刻を迎えることができ、結局イタズラだったということを笑って話し合えることができたのでよかった。

 我が地域は母親がフルタイムで働きにでている家は他の地域より まだまだ少ないと思う。しかし この地域でも高学年になるにつれ 家で子供を待つ母親は減っていくのだ。何かあった時は子供が一人きりという状況になってしまうのである。子どもが自分自身で考えて安全を確保しなければならないこともあるだろう。しかし、小学生の子どもは 一人でそこまで出来ないと思う。大人が側に居て声をかけてくれれば…スムーズにいくかもしれないが。
こういう時こそ地域との関わりが助けになるのではないかと感じる。子ども会や自治会などで交流しておけば、誰かが手を差し伸べてくれることだろう。
やはり…ボランティアには積極的に出ておくことがいい。知り合いが増えて「ボラに出てくれた○○さんちの子」というように 気にかけてもらえるようになるのではないかとも思う。
学校の先生が三十数名の児童全員の安全を確保することは不可能に等しい。一人一人を家に送ることも出来ない。子どもは自分自身で身を守る為に出来るように ある程度まで危険を想定して指示を出しておくことは不可欠だ。それでもやはり足りない。補えるのは他人であっても近所の人の気遣いだと思う。
子どもの為にも日頃から出来る限りの備えは必要だと改めて痛感した日だった。


地域のボランティア…ウエイトレス
2004.10.17
 依頼されていたボランティアはそんなに難しい仕事ではないので、結構楽しいうちに終了した。帰宅すると 旦那様が思ったより早く帰って来たので その後父の見舞いに病院まで車を出してもらえた。車を当てにしていなかったので、チャリで病院まで行くつもりだったので楽が出来た。
病院の帰りも そんな訳で余力があったので、天気もいいし母の買い物に3ヵ所回り、重たい荷物を運んだりしてしまった。ここでやめておけばいいものを、母が皆でお寿司を食べに行こうと言い出し、旦那様と子供達は大喜びだったので、従ってしまった…。多分ここで母から風邪をもらったらしい…喉が変…同じサンマを2人でつついたからなぁ (--;)
話はウエイトレスに戻るが 私は前日の「ウエイトレス説明会」にも出席し、2日間とも旦那様に子守りを押し付けて「地域ボランティア」なるものに参加した。毎回思うのだけど、ボランティアの仕事はいいとして、子供を置いて参加しないとならないのが事実…頼まれても困ってしまうことが多い。いくら保育の必要がない小学生とはいえ、一人きりで家に留守番させるのは、今の世の中危険だと思うし…。今回は昼間だったし、旦那様が居なくてもなんとかなると思ったから受けたが、夜の会合とかでも なり手がいないと「経験者」から順に声が掛かるのだ。
だいたい誰でも出来るような事。しかし、子供が成人した世代は何故かほとんど居ない。一番手の空いているだろうに…。誰も居ないから 若くて子供が小学生くらいのお母さんか、60、70過ぎの おばあちゃん世代がほとんど受けているのだ。頼りにならない団塊の世代とも言うかも…。我が家の近所にも 知らん顔している団塊の世代は多いようだ…(とっても面倒見のよい団塊の世代も居るには居るのだが、ほんの一握りの貴重な人材であろう…)
そんなことを 夜旦那様と話していたら、思い当たる知り合いもたくさん居るようで、こんな話で盛りあがってしまった(--;)


小学校大騒動勃発!!
2004.10.15
 子供が学校に登校してから2時間くらい経った頃、緊急連絡網がまわって来た。内容は あるサイトに 我が子が通っている小学校を名指しで「殺人予告」したものがあったとのこと。時間も予告してあったので、大事を取って子供を早く帰宅させるということだった。
どう見てもイタズラの書き込みであったが、学校としては児童の安全を第一に考慮し 緊急事態扱いで下校を急遽決定。給食を11時には食べ始めさせ、一時には自宅に着くよう下校させた。
我が子は私が家に居たのでスムーズに無事帰宅したが、5時間だと思って出かけているお母さんも居るだろう…皆、家に入ることができただろうか…。
ちなみに、上の子の中学校は隣接しているにもかかわらず、下校は早まることはなかった。
学校周辺に警察やら報道陣やら来ていたので、中学の中では「爆発物が仕掛けられている」とか「刃物を持った男が小学校に立てこもっている」とか噂が飛び交ったらしい。それを聞いた兄は心配で心配で弁当をほとんど残して帰宅した(^^;) 
 結果的には無事だったし、何事も起こらなかったので良かったのだが、ロシアの「学校占拠事件」も記憶に新しい…。危機をどう回避するか、学校としても今後の課題は大きいであろう。
 こんな悪意のあるイタズラを書き込んだ「狼少年」のような犯人…すぐ捕まるとは思うが…事の重大さを知らしめてやりたい思いだ。


もうひとつの心配事
2004.10.11
 旦那様の父親は私の父よりも歳が上だが現役で働いている。趣味で家庭菜園もやっていて、つい最近までは自治会長も受けていた。とても元気で顔色がよく、よく動く人なのだ。健康にも人一倍気を使い、規則正しい生活を営んでいる。我が実家の不健康生活と正反対な 模範的健康生活を送っているのだ。
 その義父が 今回の健康診断で引っかかり、再検査の結果、癌であろうという診断が下されたのだ。
晴天の霹靂とは こういうことである。


長電話
2004,10,8
 昨日の午後は全然動けなかった。母に電話すると 一緒に病院に行って欲しいようなことを言われたが、子供の塾やらスイミングに行ったり帰宅したりの時間帯になってしまうので無理だと伝えた。一番の理由は私の風邪を父にうつしてはマズイということと、病院で反対に変な菌をもらっても困るという2点だった。その時間は自己防衛のストップがかかったように、だるくてどうしても行く気になれなかったのだ。私にしては珍しく断った。
母は しぶしぶ諦めた。
このところ何でも『ハイハイ』と母の意向を行動に移していたので、何となく不満な感じだったが。

 今日の夕方に母から電話。昨日あれから自転車で病院まで行ったという。
病院までは3キロくらいなのだが、越してからは初めて病院に自転車で行ったので、道に迷ってかなり時間がかかってしまったとのこと。
それでも 少し運動をしたせいか、夜ぐっすりと眠れたらしい。よかった。少し声は疲れているけど。。。
風邪もほとんど治っているし…病院の中も足が痛かったけど何とか歩けたとのこと。
楽しい話しから始まったが、病院に対する不満に話しは向かった。「こうじゃないか?」「ああじゃないか?」と推測は悪い方向へ向かっていく。…やはり まだ精神的に良い状態までにはなっていない。
父も入院したばかりで、生活がガラッと変わってしまったから順応できていないのだ。
不安の上に膝が痛んだりしたら…それは気も滅入るだろう…。
 母の足の膝は、軟骨が擦り減ってほとんど無い状態なのだ。もう何十年も正座が出来ない。本当ならもっと若い頃に手術をすればよかったのだが、母は「手術するくらいなら イタイイタイと言いながらもそのままでいた方がいい」と手術しなかった。本当はそんな足で杖もつかず 普通に歩いては悪化させるだけで良いことはないのだが、「杖をつくなんて恥ずかしい」と本当に歩けないくらい痛い時に外出の用事がない限り、杖も使ってくれない。
今更手術してくれとは言えないけど…杖くらいは携帯していて欲しい。…でも、きっと何かあったら私の携帯電話に連絡すれば飛んで来てくれるという安心感があるので 杖を持たないでいるのだろうと思う。いいのか…悪いのか…。
一通り不満や不安を聞き、一つづつ大丈夫だということを丁寧に時間をかけて説明した。父の今回の入院で自分を責めている母は、病院の先生の説明さえも 自分の介護が悪かったと責める言葉に聞こえてしまう。そうではなくて、こういう状態というのは この病気の人はなりやすいものなのだ、と 誰もあなたを責めていなかったから大丈夫だよと、何度も何度も言葉を変え、言い方を変え…説明…と言うよりも優しく説得。そのうちに気が晴れたらしく明るい声になっていった。
 一緒に暮らしている人が病気になって…入院してしまうということは、どんなに心身共に大変なことだろうか…。支えてあげたい気持ちがあるのに支えきれない歳による体力の衰え…色々な葛藤が渦巻いているのに前に進まねばならない苦しさ。。。
余命○年○ヶ月…そう言われて介護するのも辛いが、あと何年…これを続けるのかという期限の無い介護というのも辛い。
まだまだ先の見えない曲がりくねった道を 父を抱えながら母と 道が続くまま歩いていくのだ。 いつ母が疲れて倒れてしまうかもしれない果てしない道を…。
誰よりもタフになろうと誓ったあの日から もう2年。だいぶ効果は出てきているようだ。今回の風邪は初期症状で撃退できそうだ。
なせば なる。絶対、なる。


風邪気味
2004,10,6
 …気温差に身体がついていかなくて…ではなくて、父が入院したことによる気の緩みだね…寒気がする。風邪の初期症状。
今回はメチャメチャ沢山食べているので、暖かくして寝ていればすぐに治る…と思ったけど、やはりやることはあるし、バラバラな時間帯の食事の支度やらで寝ていられない。頭痛でもあれば休もうとも思うのだが、どこも痛くないのに寝るなんて「もったいない」になってしまう…。無理の利く体に出来あがっている私。。。
で、またまた大工仕事などやりながらネットとかもしているし…良くないなぁ。
まぁ、ネットもホドホドにすれば「息抜き」にもなるし…精神的に疲れているときは、ネットするのが良い気分転換になるような頭だから そんな欲求も少しだけでも満たしてやらんと。。と思ったけど、結局ドップリ浸かっているうちに子供の帰宅時間となった。あーあ…(泣)


気が高ぶったまま
2004.10.2
 入院翌日、足りないものを病院に運ぶことになっていた。疲れているだろうから午前中はゆっくり休ませ午後に電話をした。
やはり ほとんど眠れなかったとのこと。ちょっと風邪っぽいかな、とも言っていた。
先日旦那様のお母さんの誕生日だったので旦那様にはお母さんの所に一人で行ってもらう。一緒に食事をして帰宅したら 今度は病院に送ってもらった。…申し訳ないが、今日だけは母と入院の荷物がどっさりあったので頼むことにした。
母は なんとなく気が高ぶったままのようだった。
これでは…気が抜けたら病気になってしまうかもしれない。しかし、身体をコントロールすることも気持ちを自分で静めることも…母には無理な話。もともとコントロールの効かない身体だから…今更変えるのは難しい。でも、あまりにもアップダウンが酷かったら精神科に診てもらいたいと私は希望する。町医者でも なかなか行かない医者嫌いで足の不自由な母を どうやって説得して通わせるか…考えただけでこちらが悲鳴を上げそうになるが…。
とにかく 私が健康でいなければ。
より一層食欲を押さえることなく食べよう。


緊急入院
2004.10.1
 「明日状態が改善せず自力で動けなかったら救急車呼ぶよ」母には あらかじめそう言っておいた。昨日の電話の状況だけでも 緊急入院だろうと確信するものがあった。
母の「状態が悪くなってしまった」という電話で私が駆けつけると、そこには床に倒れ込んだまま寝かされている父が居た。いかにも苦しそうだった。
意識はあるものの朦朧としているようでもあった。床暖房を入れていて暑いくらいの室内だったのだが、寒い…苦しい…痛い…との返事。それでも父は私達に心配をかけないよう一生懸命私の言葉に答えていた。
「救急車、呼ぶよ、いいね?」との問いに「いいよ」と弱々しく返事をした。
救急車はすぐに到着。緊急入院になるかもしれないと母に用意させておいた入院用品一式を担いで母と共に救急車に乗り込む。
救急処置室に隣接する待合室で待機している間母とこれからのことを色々話した。
暗い北向きの部屋で かなり長い時間待った…。
ようやく先生に呼ばれ、説明を受けた。父の状態は『脱水症状が進行しており筋肉の組織が壊れた状態』であった。熱が続いたため、より一層水分が必要だったのに、食欲がなく眠ってばかりいたので回数が少なくなってしまい、結果脱水症状になったのだろう。懸念していた薬の副作用による直接的なものではなかった。
母は薬に対して納得できなかったようだが、専門医による説明を懸命に聞いていた。
入院になるということで、とりあえず、今の苦しい状態で可愛そうな父が病院に預けて安心して治療を受けられるということが 母の気持ちを楽にさせた様子。思ったより母は前向きに話しをしていた。
諸々の手続きを経てようやく父の入院ベットに行くことが出来たのは 外も真っ暗になってしまってからだった。
父は適切な処置を受けて 少し楽になった様子。よかった。
父と同室の方々にご挨拶だけして病院をあとにした。
これで 母が身体的にも精神的にも少し楽になればいいのだが…。
また病院通いの日々が始まる…。




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