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◆◇ Diary ◇◆ 12月










様子を見に義父宅へ
2004.12.25

その後の経過は順調というので、疲れない程度に軽く顔を見に義父宅へ。
しかし、家には誰も居ない。。。はて…?と思っていると、義母が帰宅。手術の後だというのに なんと家庭菜園として離れた場所に借りている畑に妹の車で行ったとのこと!
そんなことしていいのかぁ


冷却期間
2004.12/24
1年程前、母は今の家に引っ越してきた。
母の頭には常に「独り置いてきた息子が栄養失調で死んだらどうしよう」という不安だけが渦巻いていた。母の頭の中はそれでいっぱいだった。
息子は四十を過ぎ、キチンとした社会人だ。だらしないわけでもないし、酒を飲むわけでもない。
心配こそすれ「どうしよう、ああ どうしよう!」などと 自分が引っ越したことを責めて独り置いてきたことを考えるだけで心臓がドキドキするような過剰な不安感を抱かないはずだ。普通なら。
母の息子に対する想いは 普通ではない。
それは父が息子を厳しく躾たことを見守るしか方法がなかった自分が出来る唯一の罪滅ぼし…だったかもしれない。

父は自分の息子が赤ちゃんの時は「これでもか」というほど可愛がっていたらしい。
そんな父親が変わったのは 息子が物心つく頃からだろうか…しつけが厳しくなっていった。
言った通り出来なかった…思ったよりも全然できなかった…自分自身もこれ以上に厳しい躾をうけていたから…そんな理由で暴力を伴った躾をするようになった。
理想を追い暴力をも振るう父親の姿… 母親から見てかなり耐えがたいものだったと思う。どんなに止めたかったことだろう。。
しかし実際は恐ろしくて恐ろしくて 黙って見ているしかなかったという。止めに入ったら殺されるかもしれないと慄くほどだったらしい。言葉も出せなかった。何もできなかった。
その時守ってあげられなかった後悔の念が…今もずっと続いているのだ。「息子を守ってあけなければならない。」罪滅ぼしのように息子を大切にした。

そんな独裁者で いつも理想を追い求め、自分にも息子にも厳しかった父が病気になった。
私以外の誰もが信じなかった。
いや、誰も信じられなかったのではなくて 病気になったという事実を許さなかった。
許さなかった…いや、許せなかった。多分…。

父の厳しさは凄かった。努力一筋で のし上がってきた己の人生が基本だった。人の健康状態まで咎めた。不眠不休に近い父の世話にて万年寝不足で不調を訴えていた母にも 優しくしたことなどなかった。目に見えた症状がないと 具合が悪くて伏せっていても『何故風邪なんか引くんだ!気持ちがたるんでいるからだ!』と責めた父。ほとんど仕事で家に帰らなかったが、父が家に居る時は誰もが緊張していた。
会社でも仕事ができない部下に怒鳴った。物凄く怖かったといわれる父、仕事が抜群に出来て仕事が終われば優しくきさくで人付き合いも良かった。毎日のように午前様に帰宅して朝定時に出勤していた。全てにおいて猛烈に 理想のままに生きていた。。
そんな努力を怠らず手抜きを一切しない父を、息子は反発しながらも 尊敬していた。だから何を言われても家を出ていかなかった。
4年前…恐いけど尊敬される存在の父が病気になった…。
それは この家に同居する人には受け入れられないショックな出来事だった。だらしなく口から垂れたヨダレも トイレに間に合わなくて汚してしまう様も…どれも「あの」父がしたこととは信じられなかったのだ。
しかし、現実は『病気』だった。それも運の悪いことに『難病』だった。だんだん悪化する。今の医療技術では完治しないのだ。

『別居提案』を考えに考えた挙句打ち出した私だったが、当初母も兄もいい返事はしなかった。
出来あがった生活を崩すことは 望まれなかった。
しかし、これ以上のストレスが加わった時、兄が耐えられず豹変してしまったら…。。そんなことも頭を過ぎった。ありえない話ではなかった。誰にでも魔が差すことがある。。幼い頃に虐待を受けた相手なら何が起こってもおかしくない。それに何といってもバリアフリーでないと危険だった。風呂場で転んでドアが開かなくなり ケガをしているかもしれない父を助ける為救急車を呼んだ事もあった。
色々話し合い、一番良い生活形態を考えたら やはり「別居」だった。兄を説得するのには時間がかからなかった。兄も このままでは いけないと うすうす気付いていたのだった。
私は諦めずに説得し続けたが 母は自分の置かれた立場を理解するのに とても時間がかかった。
『お兄ちゃんを独りにして置いていけない』それが踏みきれない一番の理由。自分の一部のような大切な我が子を、「楽になるからと置いて行く」と考えただけで罪悪感が沸きあがって消えなかった。
話し合いは1年を越えた。ふんぎりのつかない母だったが、父の容態が急変し緊急入院になったことと、そのすぐ後で母自身が骨折したことで 自分も介護される側にまわるかもしれないのだと観念。ようやく別居する意を固めたのは去年の11月末。 一応皆納得した形で別居に踏みきった。それはそれは恐ろしいほどの手続きを経て。。

『ここに越してきて本当に良かった』
そんな声を聞くと ホッとできる。
兄も たまーに顔を見せるらしい。食事をしていってくれない息子に 母は不満タラタラだが。
母親の呪縛から解放され、また、母親のやってくれていた家事をこなしながらその有り難味を感じている兄。家族とは何か…母親とは何か、そして 父親とは…。そんなことを客観的に考えられるようになっていると…信じている。

今日は兄の誕生日。仕事で出張しているらしい。居れば何とか都合をつけて誕生日を祝ってあげようと思っていたが、いないなら しかたない。

誕生日おめでとう おにいちゃん 体に気をつけてね。。。


どうにか良い思い出になってくれれば…
2004.12/20
今日も母宅の食料買い出し。今日は息子も時間があるので手伝ってくれ助かった。
今週これで3回目の買い出し。しかし気は楽だ。本当に楽。重い荷物だって なんのその♪←息子に持ってもらっているから^^;;
去年は父が入院していて、母の足の具合も かなり悪くて…。退院したい一心の父と、退院されても面倒みる自信がない 肉体的にも限界状態で精神的にも鬱状態に近い母との間に挟まれてしまっていた。
実際、父の身の回りの世話に病院に行き 父を励ますのは私だったから。
何と言おうか、何と言ったら傷つけずに事実を告げられるか…。。かなり精神的に参ったような状態だった。
ギリギリ出来る限りのことをしてあげようと、週末の『外泊』を我が家にて行った。クリスマスの飾り付けをし、積んである荷物を クローゼットやら子供部屋やらに どうにか押し込め何日もかけて準備した。
父も母も これには喜び おじいちゃんとおばあちゃんの存在が まだ特別である子供達も とても喜んで迎え、色々手伝ってくれた。
1階に調理場のない我が家、階段を駆け上がったり駆け下りたり。何百回と行き来して「ご用聞き」に徹し、食事の用意をした。風呂でもゆっくりしてもらい、父は床屋、母は美容院に連れていった。文字通り目の回るような忙しさであった。。
大家族のメリット…それは「家族の和」であると感じたひととき。大勢の色々な意見の中で考える幅も広まる子供達。私は役目上とても忙しい…本当に自分の時間は無い(ネットなどとんでもない!!ってほど)のだが。子供達には それ以上のメリットがあったと思う。ただ、これが毎日のこととなると子供達のサービス心も変化してくるかもしれないが。
少しだけの大家族体験だったが、皆の良い想い出になってくれればいいと…懐かしく思い出したりしている。。
もう あれから1年か…。。  


義父退院
2004.12.11

とても穏やかな陽気だった。車検で車の無い私達に代わって旦那の妹さんが退院の迎えをしてくれた。
車検は大出費となった…。。103,343円が…あまり活用していない車の為に消えていった。。。
フトコロ 寒い…これからが 本格的な冬なのに…。。


退院してから初めての病院
2004.12/10
 父が退院してから15日経過した。初日から下の世話に泣いていたが、父のお腹も安定し、積極的にトイレに行くようになったのも手伝って失敗も少なくなったそう。母の気持ちに余裕が生まれてきた様子。
とても嬉しいことである。
介護の中で一番大変なのは下の世話。これは体験しないとわからない。赤ちゃんのオムツ替えとは まるで違う。相手は大人なのだ。失敗しても羞恥心からか本当に感覚が鈍っているからか なかなか「してしまった」と言えない。我慢するとそれだけ汚れが広まり 衣服まで汚染されることもしばしば…。それを全部始末することになる。洗濯は手洗いでないと落ちず、お尻も拭いただけではキレイにならないので裸にし、風呂のシャワーで念入りに洗わねば臭くて我慢ができないほどだ。本人がキレイになっても洗濯の本洗いがあるし、風呂の排水口の汚物を取ったり汚れたオムツの汚物を取り除き臭いが漏れないよう何重にも袋に入れては縛り…という後始末をせねばならない…。大変という言葉で片付けられないものなのだ。
そういう労働が少しでも減っただけで幸せを感じるのだろう。。。

前回父を床屋に連れていくのに長時間かかったので、母は小型で軽量の車椅子を購入した。これに乗せて病院まで行けば楽でしょう と言うが、私は拒否した。車椅子は楽だ。自分のペースで移動できる。しかし、せっかく歩くまでに回復したのに また動かない生活になってしまったら…良くないのは考える余地の無いこと。本人も歩けると言っているし、時間が掛かっても歩いたほうが体に良いのだ。タクシーは使ったものの、基本的に歩きで病院に行った。
父は入院する前よりもずっと状態が良くなっていた。食欲も十二分にあり、良く食べる。何よりも時間をきちんと守って寝起きできるようになった。これは母の努力が大きい。昼寝も余計にしないように起こす。夜眠れるようになった。リズムはとても大切だ。主治医の先生は驚いていた。とても喜んでいた。。。
父は生命力が強い。きっと普通の人では乗り切れないような危険な状態からも生還するだけの生命力が備わっているのだろう。それを支えているのは「食」であり「愛情」であり、そして「生きたい」と思う気持ちだと思う。どれかが欠けたら その生命力はバランスを崩してしまうのだろう。その気持ちを支えていってあげたい…そう思わせるのは、父が望んで努力しているのがわかるから…だと思う。


家には呼べないなぁ
2004.12/9
 とっても忙しくて 寝る間もない うさ友さんが 仕事のついでに我が家に寄ってくれた。
しかし、我が家はちょうど模様替えの最中で部屋はスゴイことになっていた…。取りあえず1階の荷物を寄せたり2階に運んだりして、座る場所だけ確保して待っていただくことに。
しかし、いつまでたっても片付けがおわらず、また忙しくバタバタやっている時に 違う用件の電話まで掛かってきて外出したり…私はてんやわんや…。
昼頃に来てくださった うさ友さんにお茶も出せないまま2時を過ぎ、3時をすぎ…。焦る私。
とうとう うさ友さんの帰る時刻になってしまった…。
うさ友さん、どこかのホテルに泊まる予定でいたので もう少し待っていただくことに。夕食くらいは…という私の意気込みとは反対に、また用事が入る…。。。
結局ひとつも おもてなし出来ないまま夜になってしまった。

…という夢を見た。
今の状況をホントリアルタイムに表現した夢である。
…しばらくは家でオフは出来ないよ、という警告だろうなぁ。寝る前に そんな考えが頭をよぎったし。
結構『警告』の夢は見る。夢の中でも理性が働くし、また その時セットされている舞台場面は 私の今の状況そのものだ。
『もっと努力せよ、それでも実現は難しいし満足のいく結果にはならないかもしれない』という警告なのかな。。。
(--;;)


ランチ〜♪
2004.12/8
 元 地域役員だった方からランチのお誘い〜^^今回も4人だった。
皆、すっごく忙しい。時間がないわけではないのだが、なっかなか時間が合わないのだ。
前回このメンバーで集まったのは六月だったっけ。。。
前回もSさん宅でパン教室で習った手料理を披露してくださった。
私以外のメンバーは『パン教室』とか『おもてなし料理教室』だとか 忙しい合間を縫って通っている。今年も学校の役員をしているHさんは料理教室の他にテニス、トールペイント教室、なんたらエクササイズ…etc…とにかく時間刻みで動いている。なのに朝からパンを仕込み、子供のオヤツに焼き立てのパンをだす。家はいつ尋ねても すぐに人をあげられるほどキレイにしてる。
多分、時間の使い方が上手い人なのだ。全て時間通りに動ける人は存在する。
そういう時間管理の上手な人に どうして そのような暮らしを続けていけるのか聞いてみると「主人が頼まなくっても手伝ってくれる」「子供に好き嫌いがない」「朝からテンション高く行動ができる」という3点が浮上してくる。
このどれも当てはまらない我が家は…見てしかり。。。だな。
そういえば忙しい時の方が『今掃除しておかなければ夜まで時間が無い』と掃除してから出かけていたし、時間が空けば『今しかない』と積極的に友達をお茶にさそったりしていた。
やっぱ、両親のことを理由に気持ちが弛んでいるのだろう、私。
3人が焼いてくれた袋一杯の「お持ち帰りパン」を眺めながら『次回は是非我が家で』と思った。


反省会
2004.12/6
 地区大会反省会が夜7時からあった。
夜からだったにもかかわらず、一チーム2人〜3・4人出席があった。
一人一人の反省点を発言していった為、2時間以上を費やした。。。--;;

我々のチーム、監督2人、コーチ2人と 今回異例の4人を登録してもらった。
これは大会当日どうしても来れない監督の意向と、どうしても予測ができない私の父の様態を考慮してくださった異例の登録であった。
この人数緩和のお陰で私達のチームは とても良い雰囲気で終始練習を複数の目で見守ることが出来た。
2月までの練習を覚悟していた。私達のチームの子供も親も。もちろん私も。。。
「ビックリしたよ、旦那から『負けた』のメールが来た時は『えっ?どういうこと?』って眉をひそめてしまったよ」とは 去年もお手伝いをしてくださり、今年は当日観れないにも関わらず監督を受けてくださったIさん。3人のお子さんを持つ面倒見の良いお母さんだ。今回は一番下の子の為に来てくれたが、私が役員をしていた2年前は子供が出場しないにもかかわらずお手伝いでかけつけてくれていた。子供の面倒をよく見、何より子供の気持ちを尊重できるお母さんだ。影となり光となり 子ども会を支えてくれている仲間内でも大切な存在となっている。
去年 市の大会に出場していた。その時のコーチは この地区で10年以上も夫婦でコーチをしてくださっていたYさん。子ども会で その名を知らぬ者は居ないのではないかと思われるほどの敏腕コーチだった。今年はYさんの仕事の都合上の理由と足の捻挫、旦那さんの単身赴任等でコーチとしての関わりはなかったのだが、最終日の翌日練習を見てアドバイスをしたという。これが効いたのだと思った。
やはり私は付け焼刃のコーチであった。まだまだ子供の精神状態を高めたり厳しく気持ちをしめることが自由に出来ない。もっともっと子供に関わって、子供の信頼を得て、絶対的権限を持つまでにならねばならない…のだ。。。
きっと…自分の子供が大きくなってしまっても 毎年毎年子供会に応援に来てくれる方々の「子供を大事に育てようとする想い」の足元にも及ばないのだ。


ぶつぶつが消えないっっっ
2004.12/5
 口の周りの『のらくろ』が落ち着いた頃から 今度は首筋、こめかみ、眉頭、耳の付け根上穴の側…。。次々とモグラ叩きのようにプツ…プツ…と出現して私を悩まし続けている。
最初は 汚れが詰まってニキビができているのだろうと思いゴシゴシ洗っていたが、どうやら違うようである。とても大きくプツンとして出来るのに ニキビ特有の『芯』がない。でも違和感が大きい…。。。
出現場所を よくよく辿っていくと…なんとリンパの通っている『リンパ節』に沿ってプツンプツンとデキモノが出現していることがわかった。
なんだよぅ…何が悪くて こんなにしつこくしつこく出現しやがるんだぁ★
訳わからないリンパの醜いプツンプツンに なすすべもない私…。
グッスン。。。


まさかの敗退…
2004.12/4
 先日まで負け無しだった我がチーム、初戦から苦戦で同点となり、延長戦の末負けた。
勝ったチームは1試合目に いつも負けている相手チームに勝っており波に乗ったまま我がチームにも勝ち ここで2勝となった。…その場で自動的に優勝が決まってしまったのだった。
我がチームは試合前の練習でも波に乗れず、1のキャプテンは朝が弱いのか緊張からか、いつもの元気がなかった。2の6人のうち 一人は風邪で不調から回復できず 取れる玉も顔面に受けてしまったり首で受けてしまったりでいつもの強さの微塵もなかった。一人は直前の練習で利き手を突き指、当てるための強いボールが投げられなくなってしまった。一人はいつものムードメーカーの元気がなく勇み足すぎてカリカリしてしまい、逆にチームを緊張させてしまった。それでも最初の試合は頑張った。同点で延長戦にまでかこつけた。3分の延長戦…緊張…勇み足だった。。。流れは終始相手チーム。いつもの流れを取り戻すには3分では全然足りなかった。結局延長戦の二点だけという差で負けてしまった。
初戦で優勝がなくなってしまい、「もう 市の大会には出場できない」という悲しい想いだけで頭の中が一杯になってしまった…。2試合目は 朝一番の試合で負けを経験していたチーム。3試合を挟み気持ちの立て直しができていた。我がチームは気持ちが立て直せないないまま…1試合挟んですぐ後の試合だったので すでに最初から相手のペースにはまり、前半全滅…後半もボロボロ状態だった。勝てる相手だったのに…。。。
泣いた 泣いた ボロボロに…。絶対市の大会に出場できると信じていただけに、悲しみは大きかった。
これが勝負なのだ。前日ギリギリまでの練習と的確な指導を聞き自分達の力を信じ気合を入れる。当日のコンディションや試合の順など…。同じ位の力があった時、全てにおいて良い方に傾いたチームの勝利となる。一人でも欠けられない、体調も気持ちも。今回チームの気持ちが一つになっていたとは言えないだろう…動きがバラバラで勇み足だった。。。チームを思いやる気持ちも欠けていた。。。
監督・コーチも力不足であったと思う。子供のやりたいやり方だけでなく、もっとレベルの高い練習方法があったはず。精神的にも もっともっとチームを纏めて気持ちを高めて…実力以上の力を出しきらせることが出来たはず。 あの時 翌日の練習を提案すれば違ったのかも…。。と悔しい想いで胸が一杯であった。
閉会式では 頭の中は空っぽ…帰宅したら風呂入って布団に入りたい気分だった。


義父の容態
2004.12/3
 癌の手術をした義父、お見舞いに行った時は順調そうで歩きまわっていたが、その後状態が悪化し、軽い腸閉塞を起こした。入院は延長、また点滴の生活に戻ってしまった。
お見舞いに行ったのは術後5日くらいになっていたが、すでに病院食はビーフシチューなどの普通の食事になっていた。ええぇーそんなに早く普通食にしていいのか?という疑問が沸いたが、まぁ 当の本人が調子良ければいいのでしょうな、と、皆思っていた。 
しかし、やっぱりである…。普通食にするのも早かったが、その内容がビーフシチューなどの重い内容だったのがよくなかったのだろう。とても美味しい病院食らしいのだが、一応老人だし、退院間際くらいまでは肉料理は慎重にして 良さそうに見えても控えるべきではないのか…。。。
そして もう一点、お見舞いの客がダラダラと来たことと、長く居座ったこと。これでバテてしまった。家庭菜園仲間の気の置けない近所の方だったらしいが、お見舞いは皆で誘い合って3人くらいにして15分くらいにするのが礼儀だと思うのだが、一人1時間以上居て3人もバラバラに来れば、病人は疲れてしまう。私も下の子を産んだ当日に同室で出産後薬で寝すぎて夜眠れなくなった人に話し相手に付き合って寝不足のまま翌日朝から夕方までバラバラとお見舞いが来て全然眠れず、そのまま赤ちゃん同室となり、母乳が張りすぎて眠れず…5日で退院させられた。その後、動きに動いて体調を崩し、大変な思いをしたことがあるので、睡眠や安静というのが どんなに大切かよくわかる。


床屋までの 長い長い道のり
2004.12/2
 息子が試験終了して午前中で帰宅したため速攻で昼食を摂り、約束通り父を床屋につれていくつもりで迎えに行くと 父は昼寝したままだった。
「起きないのよぉ」と母。困った私と息子。
それから完全に起きあがるまで1時間かかる。
母も外に出たいというので息子に地下駐輪場から自転車をだしてもらう。
父のスローな歩きに母が自転車を押して並んで歩こうとする…うしろから来た数台の自転車に気付き 息子が「おばあちゃん、右に寄って」と言っても どうして寄らなければならないのか すぐに理解できず後ろは渋滞。。。これだから年寄りは困ると言われそうだ…。
退院したばかりでスタミナが戻っていない父は少し歩くと すり足で動かなくなってしまった。休み休み前進。それに合わせて母も止まったり戻ってきたりするので 床屋まで300mくらいの距離を移動するのに30分近くかかった。
動きがとりにくくなるので母には別行動して欲しかったが、心配で仕方が無いらしく付いてくる。息子を付けておいたが、父を床屋に預けてくるまで店の前で待っていた。。。年取ると、余計なことまで丁寧になる。そしてスローでマイペースに行動するようになる。仕方が無いのだが すべて少ない時間で動こうとしているこちらにとって、それは たまらなく無駄に感じてしまうほどのものなのだ。
息子に付いてもらって母と別れ、先日から鍵が行方不明の下の子の為に早足で一旦帰宅。向こうから子供が歩いてくるのが見えた。セーフ。洗濯物をとりいれ、下の子を遊びに見送ったら また母の居るデパートに戻る。途中、息子から○階にいると電話がある。そこに行って母の捜しているものの場所を案内したところで床屋から終了の電話があった。
母に息子と先に帰宅しててねと告げ床屋に迎えに行く。案の定、帰りも看板を読むたび電に止まってしまう父を電柱に手をつかせて休ませ、体勢を持ちなおして…30分以上かけて帰宅。一時頃自宅を出発した私達は、4時半過ぎに帰宅した。
息子は私以上に母のスローペースに困っていたが、気が長いのでなんとか持ちこたえてくれた…。
長い長い床屋への往復の旅だった。。。


練習最終日
2004.12/1
 練習最終日、bQの腕の子のうちの一人が風邪で帰ってしまった。とても不安に思う。どんどん取って攻めることの出来る子は戦力であり、そういう子が6人も居る我がチームはミスをフォローすることがうまく出来、万が一戦力の子がアウトになっても試合の流れが変わらないで勝てているのだ。
 大丈夫か?という予感は的中で、練習試合は押され気味。一抹の不安がよぎる。
このままで当日を迎えてよいのだろうか…?
他のチームは明日も練習だという。練習に携わっているお母さんにその話をすると、良い状態でやめておいた方がいいのではないか?という。
私一人の意見だけでは決められず、これで終了となった。
なんだか中途半端な浮いた気持ちは私だけだったのか…。。。


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