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◆◇ Diary ◇◆ 3月

別れの季節
2005.3.1

下の子は 幼稚園前の子を対象とした保育サークルに入っていた。色々な地域があるので子供達は別々の幼稚園、小学校に進んだりしているが、そのお母さん達とは繋がりが深く、時間さえ合えばランチをしたり、子供を遊ばせたりしていた。
学年が上がるにつれ お母さん達は働き出し、子供達も下校が遅くなったり習い事に通ったり…と忙しくて集まる機会はなかなかなくなり1年以上会ってない。
その中で幼稚園も一緒で仲良くしてもらったお母さんから久々のメールがきた。 保育サークルの時の人が県外に引越ししてしまうので、お別れ会をしたらどうか?という内容のものだった。
会いたいし、お別れ会をしてあげたい。しかし、忙しい仲間(私以外は全員働きに出ている)を集めて お別れ会を開くことができるのだろうか…。。
一応皆に当たってみるよと返事をしたが…無理っぽい気がするなぁ。。


頭の機能停滞
2005.3.5

このところ母の精神状態落ち着いているせいか、私は気が抜けた状態になっているらしい。
どうもよくない…。せっかく時間があるのに全然うまく使えない。頭の中が停まったまま…。
そんな中 午後から自治会絡みの印刷仕事。仕事が入れば一応頭が動くらしい私。
しかし、終われば 完全に だれているだけになってしまう。

困ったけど、困っていないのだ実は。
頭の中での処理機能が「困った、やらなければ」と反応してくれない。そう、自動的に「休憩時間です」と処理してしまうのだ。
実はもっと忙しい方が頭の回転がよくなる。長期的な寝不足にでもならない限り、忙しい方が頭の中は健全なのだ。普段はやらないような余計な事をしたりするのは、こんな時。馬鹿丁寧に時間を掛けて…。
もったいないと判っていながらボケボケしているのを楽しんでいるのかもしれない。


散骨希望

「ぼくが死んだら○○の下に散骨してくれ。」
少し疲れが出始めると、この頃口を突いて出てくる言葉。
これには少々うんざり気味の私。
疲れているのはわかる。年取ったのもわかる。
「早く引退したい」そんな言葉がでてくると一回り程年上の旦那を持ったことに少しだけ嫌気が差すことも多々。

望郷の念だろうか…幼い頃過ごした土地を訪れることが多くなった旦那様。
今住んでいる所には ちっとも愛着がわかないらしい。
それは 仕方ないことだけど、散骨の話ばかりするのはねぇ。。。
で、今日も『忘れずに散骨してくれ』
…あんまりしつこいと忘れるかも〜♪


夢であって欲しい
2005.3.14

「ほかに女がいた。たくさんだ。数はわからないほどだ」
そんなセリフに奈落の底に叩き落される私。
今まで気付かなかった自分が悲しかった…。何故もっと早く気がつかなかったのか。。
旦那のお母さんも下を向いて泣いているようだ。私と目を合わすこともできない。
小さい子供の手を引いた私は その場を後にするしかなかった。
その場で泣けなかった。泣き崩れられなかった。素直に心のまま嘆くこともできなかった。
ただ足元を見ながら足早に去ることだけが…精一杯 人間でいてられる私の行動だった。

…というところで目が覚めた。
夢だった。。。しかし実際に泣いていたらしかった。
「悪夢だ、これは夢であって欲しい」目覚める直前まで心から願っていた。
本当に心が壊れるくらい悲しかった。

実際の旦那様は そんなことをする人ではない。
と思う^^;;;
でも、そうなったら…。

何もないことのシアワセ。当たり前の生活を送れるシアワセ。家を守ることの大切さ。
結婚していることの安心感。約束の上の脆い関係…。
お互いがお互いを思いやることがどんなに大切なことか…。結婚生活も長くなると忘れてしまう そんなことを 戒めとして私に教えてくれたのかもしれない。夢として。
今日から1週間、出張の旦那様を見送りながら 色々考えてしまった。
当たり前ってことは 存在しないのかもしれない。
もっともっと大切にしなければ…いけないのかもしれないな。家族と旦那様。
何かの警鐘かもしれないと考え色々反省した日だった。


いきなり入院
2005.3.18

ここにきて時間に余裕が出来た私だった。
母の状態も安定していた。
この2週間は母の元に行く回数も激減した。
いい調子だった。
お隣の奥様から「国勢調査」に関するアルバイトのお誘いがあったので、「今のままなら出来るかも♪」と前向きに検討する返事をしたところだった。

この日は母の定期検診だった。
夕方近くになって『ドキドキして具合が悪いから薬を(自分の代わりに)病院に取りにいってくれないか?という電話が来た。
いいけど、具合の悪い時に病院に行かないと意味がないよ?というようなことを言いながら私は薬を取りに行くことを承諾した。
しばらくして母は『気分が良くなったから、やっぱり自分で行く』との電話を掛けて来た。
雨も降りそうだったし、下の子のスイミングに送っていかねば…と思っていたところに 母からの電話と子供の友達のお母さんから車で送迎してくれるという電話が入った。
子供を車に乗せてからすぐに母の自転車を出そうと思ったのだが、なかなか迎えがこなかった。
ようやく子供を見送ってから母のマンションに掛けつけたら すでに母の姿はなく、父が昼寝をしようとベッドに横たわったところだった。
タクシーで行って欲しかったが、自力にて自転車を出して病院に行ったらしい。。
仕方なく せっかくだからゴミ捨てをして、近くの薬屋で買い物をして帰宅した。雨が降ってきて濡れた。

帰宅してしばらくすると母から電話。なんでも具合が安定しないので 大きな病院に紹介状を書いて精密検査をすることを勧められたらしい。どこの病院がいいかとの相談だった。

夜風呂に入っった後 子供に夕食を食べさせていたら電話が掛かってきた。
母からだ。なんと、そのまま大きな病院に行って そこで「このまま入院」と言われたらしい。
なんてことだ。。父はまだ夕食を食べていないのか!
頭の中に色々なシュミレーションが駆け巡った。とにかく夕飯を早く父に食べさせなければならない。夜独りっきりで置いていくのは気になるけど…明日子供達を学校に送り出さねば…旦那様も出張だし 今日は泊まってあげられない。。朝起こしに行くまで父は独りで無事にいてくれるだろうか…。。。
父の家へ小走りに向かいながらも頭の中を まるでイエスとノーで答える○○診断のシートにて行動をしているような感じだった。
父は寝ていた。起こして 家から持参してきた粥と冷蔵庫にあったものを食べさせた。
着いた時間が遅かったのもあったが、父の食事のペースは ものすごく遅い。薬を飲ませ、トイレに行かせ、着替えさせ…帰宅時間は遅い時間になってしまった。
さー どうやって明日から我が家と父の介護をバランスよく切り盛りしていくかな…。


誰も当てには出来ない
2005.3.21

当てに出来るのは自分の身一つだ。
兄は仕事から父の家に寄ってくれたりするが、夕食を用意するわけでも着替えをさせるわけでもない。大体どこまで見守っていて どこを手伝えばよいのかがわからない。
普段面倒みたことないのだから仕方ない。
それとは別だが、兄は自分の料理も あまりしない。
レトルトだとかサラダだとかが中心らしい。
せっかく私が居るのでカレーと具沢山コーンスープを仕込んできた。
父はカレーは食べない。誰の食事の用意しているのか…。。
まぁ、たまにはキチンと栄養あるものを摂ってくだされ。

洗濯も入浴介助も私がさっさとやってしまった。。
通勤時間も長いし…疲れているのだもの。。やはり仕事していて介護は難しい。。

朝子供を出して旦那様の朝食・弁当の用意をしたら父の元へ。起こしてパジャマなどが汚れていたら洗面所にて着替えさせ その場でヨーグルトなど軽く朝食、薬を飲ませトイレへ。
トイレさせている間(20分〜1時間半)に食事の支度、掃除、洗濯。
食事はやはり1時間半くらいかかってしまうので トイレからでたらすぐに食べ始めてもらう。
食べている間に買い物とか家の用事とかする。食後は薬を飲ませ昼寝。一旦自宅に帰宅、夕飯の用意をして母の病院等顔出し。少し話し相手になってから 父を起こしに行き、夕飯の支度、食べ始めるのも6時頃。子供達にも 父の元に来てもらい夕食。
夕食が済んだら子供達には先に帰宅して風呂に入ってもらう。この間無法地帯なので遊びすぎないよう注意の電話を掛ける。 父の食事が終わったら薬を飲ませトイレに連れていき 洗い物。全てが済んだらベッドに寝かせ ようやく帰宅。旦那様の食事の用意をし風呂に入ったりする。
大体3往復くらい毎日した。。
自宅の隣りが実家だったら どんなにラクだったろうか。。
父の元に行ってしまえば家のことが出来ず、帰宅すれば父が気になって仕方がなかった。。
家のそばのマンションに来て欲しかったよ。。そうすれば移動時間1分だものね。。
などと思ったりもした。本当に移動時間はもったいないものだ。
よーく倒れなかったな。。気ぃ張ってたからな。。って思う。。。


退院決定・監督不在の我が家
2005.3.25

「家族の方にお話があるので病院に来てくれ」といわれた。
心臓の専門医である先生は 変わった感じがする先生だった。
病気かどうかを詳しく調べてくれるのはいいことだ。
もしかしたら危ない状態かもしれない と、検査入院させたのも この時は最善の策だったと思う(いや、思いたい。思い込みたいのだ)
しかし、先生と話していて 何故か不信感が募る私。
だって、先生、こちらの話を聞かないで自己完結させているっぽい。。
母の話と先生の話と私の話は平行っぽいまま。。。終了した。
とりあえず明後日退院できるというのでホッ。。

もしかしたら1ヶ月以上病院と父の介護に明け暮れるかもしれない…と覚悟はできていたが、予想以上に 自分の子供が放ったらかしになってしまい、遊ぶ時間ばかり過ごしていた子供の収拾にとまどうこととなってしまった。
我が家の子供は監督が居ないと駄目なのだ。自主性という淡い期待を見事に裏切ってくれた。私が居ないとビデオ見放題、ゲームし放題…。。勉強だとか予習だとか復習だとか自分から「やらなきゃならない やっておこう」という頭は持ち合わせていないのかもしれない。
まだまだ人間は出来ていない。上の子がそんなだから下の子も つられてダラダラ。。
安心して家を空けることは 我が子がもう少し自覚を持たねば 安心できない。
1週間で私もヘトヘトになってしまった(我が子達のことにね)
そして、実家が隣りだったら…どんなに良かったか…と思った。

とりあえず 母の退院が決まって 本当によかった。。。


ストレス
2005.3.29

母はストレスに弱い。
母は自分のペースを守りたい人だ。
思う通りにいかないと それだけでストレスを感じてしまうことがある。
今回の入院騒ぎも原因はストレスなのだ。頭痛がするのも、動悸がするのも、吐き気がするのも、眠れないのもストレス。全て原因はストレスなのだ。体に病気があるわけではない。

神経質で怒りっぽく涙もろい…もともと精神的に追い込まれるタイプなのだろうが、老いたから余計顕著に現れるようになったのだろうと思う。

父のケアマネージャーさんから電話があった。
来月のケアプランについて電話を掛けたら母の具合が悪そうなので ケアプランの承認を私の家でしてもいいか?とのことだった。
母の具合は火曜日と木曜日に悪くなる。火曜と木曜はというと 父のデイサービスの日なのだ。
父の迎えが来る前に間に合うように準備をさせるのが酷い苦痛と感じてしまうのだ。

少し遅い時間にしてもらい、母が具合悪い場合私が玄関で応対することで大丈夫ですと伝えた。
ケアマネさんは とても心配して下さっていた。
ここまで顕著にストレスが現れる人に会ったことがないのだろうなぁ。。
夕方 父が帰宅した頃を見計らって寄ってみた。
精神的に不安定になったままで、母は横になっていた。
何も食べる気がしなく 胸がムカムカして仕方がないという。
この状態を打破するには、色々話をさせ、話を聞き、良い方向に導いてあげるのが最善の方法なのだ。もちろん食事の支度や父の世話などもする。とにかく『自分独りで頑張らなくていいよ、私がやるから』ということを思い起こさせ安心させるのだ。
しばらくしたら落ち着いてきた。ホッとする。一通り出来る事は全てしてしまい、父を寝かせ『明日も夕方来るから、それまでに何かあったら電話ちょうだいね』と念を押す。
こうして母は落ち着きを取り戻していくのだ。

完治はしない。父も母も。解っている。
でも、少しでも穏やかに過ごせるように…『生きていて良かった』と思えるように…
その為に 私は頑張ろうと思う。


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